2007年12月23日 (日)
2007年12月21日 (金)
鎌倉探訪(6)
この度の鎌倉探訪も今回の投稿で終わりです。途中鎌倉市内の小さな山林に於いて道に迷ってしまうアクシデントも有り、お恥ずかしい限りの記事となりました。最終回の記事は2005年にも訪れ美しい紅葉を再び期待しての「覚園寺」(かくおんじ)を紹介致します。 尚、このお寺に付いて詳しい情報をご覧頂きたい方は下記URLをクリックして下さい。
http://www.treep.jp/2006/06/kakuonji.html
以上全6回にわたって鎌倉紅葉探訪の写真を投稿させて頂きました。文章がヨレヨレでご理解出来なかった所も沢山有ったかと思います。訪れた寺院の由緒はネットの検索引用で、私自身大変参考になりました。今まで写真を撮るばかりだった自分が、次回からは少しでも別な角度から表現したいと思って居ます。最後になりましたが、このシリーズを見て頂いた方々、又コメントを頂いた方々へこの場を借りましてお礼申し上げます。今年も残す所後10日ばかりですが、お読み頂きました皆様のお陰で約3年のブログ更新も継続できました。また来年早々何かのシリーズで投稿出来ればと思って居ます。有り難う御座いました。
2007年12月19日 (水)
鎌倉探訪(5)
今日は建長寺へ行く道を選択したと思って進んだ道がとんだ間違いだった為、獣道の山越えをせざるを得ない恥ずかしい事件から述べます。本当は左の写真で横須賀線ガードを潜り抜けたら直ぐ左の道へ進めば良かったものを、曲がらず暫く直進してから左の路地へ入った為、目的とは違った所に迷い込んでしまった。先回の記事に繋がりますが、進んだ小道の周りは民家も無くなり森になって来ました。今更引き返す気にもなれず、向う方向は正しいと信じ道を探した。微かに人が通った様な獣道が有ったので強引に急な山越えを実行した。正確な時間は覚えてないが5~10分位道なき道をもがきながら歩いたと思う。漸くして眼下に舗装された道路を見つけたので一安心、明るい所で自分の体を見ると雑草の種が体中付いて居り、藪の中での格闘ぶりが想像を絶するものだった事を知る。 舗装された道を南に下り、通りがかりの人に、建長寺へ行きたいのですが、この道で良いのでしょうか?と尋ねたら、この道の突き当たりを左に曲がって暫く行くと右側に在りますと教えて頂いた。安堵した気持で下って行くと目の前に鎌倉八幡宮の西側が現れ、この場面で本当に道を間違えた事を確信した。(追記:自宅へ戻って鎌倉の地図を調べ所、扇ガ谷2-26番地から切り通しの無い山越えで雪の下2-6番地へ渡った事になっていました。) 建長寺へ行く為にはかなり後戻りとなる為、取り止めて鎌倉八幡宮の西口から境内へ入った。
上の写真は皆さんご存じの「鎌倉八幡宮」です。有名な大銀杏も未だ沢山の紅葉した葉を付けており、参拝客も平日にも拘らず大勢来て居ました。
八幡宮入口には太鼓橋が有り、その両側には池が有ります。向って左が平家池、右が源氏池と名付けられて居ます。鎌倉八幡宮の由緒は『康平6年(1063)源頼義公が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神として出陣に際してご加護を祈願した京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりです。
その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝公は、治承4年(1180)鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地にお遷しし、 建久2年(1191)には鎌倉幕府の宗社にふさわしく上下両宮の現在の姿に整え、鎌倉の町づくりの中心としました。 また、頼朝公は流鏑馬や相撲、舞楽など、今日にも引き継がれる社頭での神事や行事を興し、 関東の総鎮守として当宮に厚い崇敬の誠を寄せたのです。 以降、当宮は武家の精神のよりどころとなり、国家鎮護の神としての信仰は全国に広まりました。 当宮への信仰を背景に鎌倉を中心として興った質実剛健の気風は、その後「武士道」に代表される日本人の精神性の基調となりました。 現在では国際的史都鎌倉の中心的施設として国の内外より年間を通して数多の参拝者が訪れます。
現在の御本殿は、文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉公の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されています。 深い杜の緑と鮮やかな御社殿の朱色が調和する境内には源頼朝公、実朝公をお祀りする白旗神社をはじめとする境内社のほか、 静御前ゆかりの舞殿や樹齢千年余の大銀杏が八百年の長い歴史を伝えています。』
最後の写真2枚は今の源氏池の秋色です。八幡宮の写真も撮り終え、入口斜め向かいの日本そば屋さんで昼食を摂ったが、この店の天ぷらは美味しかった。今回の鎌倉探訪コースも残す所「覚園寺」一か所のみですが、そこでの写真は次回に致します。(次回に続く)
2007年12月17日 (月)
鎌倉探訪(4)
ここ鎌倉では写真の様な人力車があちらこちらに見掛けられますが、外国からの観光客や日本のお嬢さん達の利用が多くなっているものと思われます。 この場所は人力車やタクシーが駐車する所で海蔵寺山門を出た近くに有ります。
写真の様な秋の実りを見ながら次の目的である建長寺へ足を進める。横須賀線のガードをくぐり暫く直進して、左の道に入れば建長寺へ行けると思ってどんどん歩いた。しかし後でこの道は違って居た事を思い知らされる。間違って困ったことに付いては次回の記事で紹介しますが、ここでは未だ間違って居ることに気が付かない儘の行程を述べます。左に入った道を進み、その左手には「薬王寺」が有ると思ったが「浄光明寺」と言う名の寺だった。少し不穏な気持ちだったが、この寺の境内へ入った。
間違ったとは言え、ご縁が有って参拝させて頂いたお寺「浄光明寺」、ここでも美しい紅葉を堪能出来ました。他に ツワブキの花も眩しい紅葉景色に負けじと自己主張をして居た。ここでこのお寺の由来をネットから引用して置きましたのでご参考下さい。『源頼朝の天下統一を助けたとされる文覚上人が、頼朝の命を受けて建立した寺院を、建長3(1251)年、六代執権北条長時が真阿上人を迎えて中興したと伝わる。
建武2(1335)年には、後醍醐天皇から謀反の疑いをかけられた足利尊氏が、この寺に籠もって反抗の意思がないことを示したとのエピソードもある。
庫裏裏手の石段を上ると、正面に阿弥陀堂、左手に本尊の阿弥陀三尊像が納められている収蔵庫がある。衣に粘土で作った文様「土紋」が施された本尊は、いかにも鎌倉らしい仏像として人気が高い。』
境内の美しい被写体の撮影も終わり、北東方向の細い路地を進めば建長寺へ行けるものと決め付け歩きだした。路地は段々細くなり人一人通れる位の道幅、この先行けるのだろうか?行き止まりになるのではないかの不安がよぎった。(次回に続く)
2007年12月15日 (土)
鎌倉探訪(3)
源氏山公園で暫しの被写体探し、10枚位の撮影後、次の目的へ足を進めた。公園のほぼ中間から「化粧坂」(けわいざか)を下ったが、今日この坂はビショビショに濡れており、滑って転びそうだった。間もなく平坦な舗装道路に出て閑静な住宅街を歩くとT路地 に当たる。そこから左へ曲がった先が次の目的である「海蔵寺」(かいぞうじ)です。この路地左右には下の様な今を盛りとした紅葉風景が見られ、さすが紅葉のお勧めスポットでした。
それではここで海蔵寺に付いてネット情報を引用し少し説明させて頂きます。
海蔵寺の由来は臨済宗建長寺派の寺で、建長五年(1253)に鎌倉幕府六代将軍宗尊親王の命によって、藤原仲能(道知禅師)が願主となって、七堂伽藍の大寺を建立したが元弘三年(1333)5月、鎌倉滅亡の際の兵火によって全焼してしまった。室町時代の応永元年(1394)になって、関東菅領・足利氏満の命により執事の山内上杉憲定が再興。薬師如来を本尊とする大寺で盛時には谷戸一帯に塔頭が立ち並ぶ程であったが、今はことごとく廃絶してしまった。
本尊は薬師如来で胎内に啼薬師を納めている。
境内の鐘つき堂付近を中心として、ため息の出る程の美しい紅葉でした。今年の紅葉は一週間程遅れていると報道されて居ましたが、その通りの時期に出会い満足なタイミングでした。(次回に続く)
2007年12月13日 (木)
鎌倉探訪(2)
稲村ケ崎駅から長谷駅に戻って左に長谷寺の門前町を見ながら9:30分頃大仏ハイキングコースへと向かう。車の沢山通る道の右側を暫く歩き、このハイキングコース入口はトンネル手前の急な階段から始まる。暫く登り坂が続くが、木々の間から木漏れ日も見られ、空気も美味しい。また登って来た所を振り返ると開けた場所からは由比ケ浜や稲村ケ崎半島が眼下に見える。息を切らしながら上り下りを暫く歩き、最初は銭洗い弁財天でお参りしました。そこから再び急な上り坂を登って右へ曲がり源氏山公園に入った。この公園には多くのハイカーが過ぎ去っていく秋色の景色を楽しんで居ました。
源氏山公園の銅像は鎌倉幕府を開いた源頼朝ですが、この場所となった謂れは『平安時代の永承6年(1051)、源頼朝の先祖である源頼義は陸奥の安倍頼時の討伐に出陣。その時、ここの山上に白幡を立てて、氏神の岩清水八幡宮に戦勝を祈願し、出征した。源頼朝も此れに習って、平家追討の時、山頂で、源氏の戦勝を祈願したと言われる。昭和40年に出来た公園。桜(4月)、さざんか(11月)の時期が綺麗です。近くに頼朝の父・源義朝の館の跡に建てられた寿福寺がある。』と言う歴史的な由緒有る公園です。12月になっても未だ十分に紅葉が残って居り、良い被写体になりました。(次回に続く)




































































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